「定型と批評性」

何と1週間更新しておりませんでした。これはどうしたことか。
月曜日,元々の事務所の先生に開業のご挨拶,水曜日,久々のオケ練習,木曜日,同期先輩弁護士に開業祝いをしていただく,金曜日,歯医者。
書く時間はあったはず。
申し訳ございません。

さて,読んでいる内田樹先生のブログに,これまた納得の記事がございましたので,一部ご紹介。
内田先生は,先日講演に行かせていただきましたが,こうした記事の引用について,「どうぞご自由に」という考えでいらっしゃるのですが,全部引用はさすがに気が引けるので。

(以下,一部引用)
今朝の毎日新聞の一面のコラム「余録」にも、思わず反応してしまった。
コラムは「決断」をめぐるもので、鳩山首相の決断力のなさと、最近の「発奮」ぶりをいささか嘲弄的に紹介している。
「普天間基地問題でも『体当たりで行動していく』『必ず成果を上げる』と歯切れがいい。先週の内閣メールマガジンでは『未来に向けて時計の針をもっと勢いよく回せるような政府をつくりあげていきたい』とアピールした。だが、沖縄県民、米国、連立与党のいずれをも満足させる道がこれから急に開けるようにも思えない。『針の穴にロープを通すくらい難しい』ともらしたことがある首相だ。何を選び何を捨てようとしているのか。『腹案はある』と自信ありげな腹の内を見てみたい。」(毎日新聞、4月5日)
「よくあるコラム」である。
こういう書き方を日本のジャーナリストたちは「批評的な」ものとして、たぶん無意識に採用しているのだとおもう。
彼らは自分たちが「批評的定型」にはまり込んでいること、鋳型から叩きだすように同型的な言葉を流していることに、あまり自覚的ではない。
だが、「批評的定型」というものは残念ながら存在しない。
批評性というのは、ぎりぎりそぎ落とせば、「定型性に対する倦厭」のことだからだ。
だが、このコラムの文章には「定型性に対する倦厭」がない。
たしかに、どんな人間のどんな文章も、それなりの定型にはとらえられてしまうことからは避けられない。
定型から逃げ出そうとすれば、シュールレアリスト的饒舌かランボー的沈黙のどちらかを選ぶしかないと、モーリス・ブランショは言っている。私も同意見である。
ひとは定型から出ることはできない。
だが、定型を嫌うことはできる。
定型的な文章を書いている、そういう文章しか書けない自分に「飽きる」ことはできる。
「飽きる」というのは一種の能力であると私は思っている。
それは自分の生命力が衰えていることを感知するためのたいせつなセンサーである。
「飽きる」ことができないというのは、システムの死が近づいていることに気づいていない病的徴候である。
このコラムの文章に私が感じたのは、その病的徴候である。
どうしてこのコラムニストは自分の書いている文章に飽きないでいられるのか。
それについて考える。
(引用終わり)

続きはこちら

感想文なんて素人でも書けるんです。
司法試験合格者減らせ,と言ったのに対して,「内向きだ」となんて批評することは簡単なんです。
ほんとに日経の記者は,なんで「自分の書いている文章に飽きないでいられるのか。」。
書いたことに全く責任を負わないような文章しかかいていないから?


ちょっと来週は,ちゃんと更新しますから。見捨てないでください(笑)。
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by black_penguin | 2010-04-10 22:10 | その他 | Comments(0)

弁護士のちょっとブラックな業務日誌


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